ふくおか食べる通信 | バックナンバー
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12号:平川秀一さんの「塩」

2019年9月 最新号

塩守

もうもうと湧き上がる湯気、滴る汗、パチッパチッと燃え上がる薪の音。鉄釜の中の濃縮された海水はブクブクと音を立てながら琥珀色に煮詰まっている。鉄釜に向かって、ゆっくりゆっくり丁寧に琥珀色を撹拌するその姿は、何人をも寄せ付けない近寄り難いオーラを感じる。1リットルの海水からわずか1グラムほどしか採れない塩。そのわずかな変化を見逃すまいとする鋭い眼光は、瞬きを忘れたのかと思わせるほどだ。  改築して10年ほどの工房の壁や天井に目を向けた。見た目では数十年経過していると思えるほど傷んでいる。愛用している鉄釜も所々に錆の跡。それでも、この鉄の平釜で塩を作る事を変えようとはしない。

「海の近くで塩を作っている訳ですから、建物や道具への負担は大きいです。ただ、それは自然の摂理ですから抗うよりも受け入れるようにしています。釜もステンレス製などを試した事もありましたが最終的には鉄釜が良いという事に至りました。鉄瓶で沸かしたお湯で、飲むお茶は柔らかいですよね。塩も同じです」。  「ずるをしない」。そうやって塩を作ってきたと、その塩守がおもむろに語った。その言葉は、目の前の一挙手一投足を瞼に刻むうちに、揺るぎない信念として、彼の頭のてっぺんから爪先まで貫かれているものと確信した。 平川秀一さん(44歳)。“またいちの塩”として、糸島市芥屋地区、糸島半島の西の突端で塩作りを始め19年目を迎える。

11号:遠藤 淳さんの「川茸」

2019年7月

「おー!川茸採っとーやん!」。
近所の小学生らしき少年達が、黄金川に架かる小さな橋の欄干から身を乗り出し、大声をあげている。「遠藤さん、こんにちは!」。『川茸屋さん』、『川茸のおじさん』、『遠藤さん』など、地元の子供達から親しみを込めてそう呼ばれているのは遠藤金川堂の十七代目当主、遠藤淳さん(50歳)である。
「どこ行きよるとか〜?」、「遊び!」。「気をつけて行かないかんぞ〜」、「は〜い」。二言三言、少年達と会話を交わすと、淳さんは再び、透き通った川面に向かい川茸を採り始めた。

世界でここだけ
福岡県朝倉市屋永。のどかな田園風景が広がる。その中心部を、距離にして2キロメートル弱、川幅は4〜5メートルほどの小川が流れている。深さは大人の膝下程度のその川は『黄金川:こがねがわ』と呼ばれており、ホタルやカワセミが生息する清流で、太古の昔からこの地に自然の恵を与えてきた。その最たるものが『川茸』である。藍藻類に属する原始藻類で、学名をスイゼンジノリという。5億年以上昔から地球上に存在し酸素を供給していた。日本固有の種で、以前は熊本県などにも自生していたが、現在自生しているのは、この黄金川のみとなっている。つまり、世界でここだけにしか生息していないのだ。形状は不定形で、肉厚がある寒天質のノリだ。色は黒く、その見た目から川に生える茸とされ『川茸』と名付けられた。しかしながら収穫量は年々減少し、その希少性から、2006年に環境省レッドリスト絶滅危惧種1A類に指定されており、今後の存亡が危ぶまれている。この物語は、その川茸を250年以上に渡って守ってきた遠藤金川堂の歴史と、それを何とかして後世に残そうとしている十七代目当主、遠藤淳さんの苦悩と地道な歩みの物語である。

10号:古賀哲也さんの「ばら干し海苔」

2019年5月

有明
満月の明かりが煌々と川面を照らしている。夜明け前の大川市大川漁港では、出航を今か今かと待ちわびている十数隻の漁船のエンジン音が鳴り響いている。微かに潮の香りが漂う中、防寒対策を施し、暗くても目立つような色とりどりの鮮やかなカッパに身を包んだ海の男たちが、出航の準備に余念無く勤しんでいた。2018年10月25日、午前6時前。気温7度。この日は待ちに待った有明海での海苔の種付け解禁日である。この日、有明海中の海苔漁師が一斉に沖合の養殖場に向け出航する。その数は福岡県内だけでも1000隻にも及ぶという。我々取材チームもライフジャケットを装着、万全の準備を施し漆黒の海に向け出航した。

西の空に輝いている満月を右手に見ながら、漁船は筑後川河口から有明海に向け16ノットの速さで南下している。時速30km程のスピードだが、直接風を浴びているからか体感ではもっと速く感じる。「辺りが暗いので、落ちたら助ける事ができません。座っていてください」と漁船を操縦する古賀哲也さん(41歳)の一言に我々取材チームは肝を冷やし、素直に従ったのだった。
午前6時を過ぎた頃から東の空が白み始め、徐々に辺りの景色がおぼろげながら見えてきた。漁船はすっかり陸地を離れ有明海に入っている。気がつくと辺りは、海からニョキニョキ生えているかのような無数のヒゲ達で四方八方覆われていた。有明海特有の「支柱式」と呼ばれる海苔養殖法である。種付け日から遡る事約2ヶ月前から、10メートルはあろうかという支柱一本、一本を規則的な間隔で正確に海中に刺し込んで行く。しかも揺れる船上から素手で。哲也さんの所だけでも3000本近く刺すという。気の遠くなる話である。
ようやく養殖場に着くと、哲也さんは仲間3人と連携しながら、種付けの為に準備されたカラフルな海苔網を、大きな風呂桶のようなモーター付きの小舟に載せ替えた。波は比較的穏やかではあるものの、時折辺りを通過する漁船の引き波の影響で立っていられないくらい大きく揺れる。その小舟をいとも簡単に操りながら支柱と支柱の間まで移動し、丁寧に海苔網を張り付ける作業に取り掛かった。すると、その時を待っていたかのように、東の空から太陽が顔を覗かせた。西の空にまだ月が有るのに夜が明ける事を「有明」という。その光景はまさに「有明」そのものであった。この物語は古賀昭行さん、雅敏さん、哲也さんと三代続く海苔漁師親子の挑戦に次ぐ挑戦の物語である。

9号:あつひろ農園のいちご「みつのか」

2019年3月

降りてきた夏
『内村航平金メダル!体操男子個人総合で28年ぶりの快挙!』。街中に号外が溢れ、テレビからは見事に着地を決め、金メダルを獲得したシーンが幾度となく流れていた。ボクシングの村田諒太がミドル級としては48年ぶり涙の金メダル。レスリングの吉田沙保里と伊調馨はオリンピック三大会連続の金メダルを獲得するなど、日本選手団は当時としては過去最多の38個のメダルを獲得した。

 日本中がロンドンオリンピックに沸いた2012年の夏、平光加(たいらみつか)さん(48歳)は、いちご色の愛車を走らせ実家のある筑後市に向かっていた。この年の夏は連日連夜の熱帯夜。福岡でも最高気温が37度を超える日もある灼熱の暑さで、猛暑日が20日以上続くなど過去の気象記録を塗り替えていた。
数日前、“ワシワシワシワシ”という西日本特有のクマゼミの大合唱の中、したたる汗を拭いながら家路を急いでいたみつかさんに、ふと誰かの声が聞こえた。その声はすぐにクマゼミの大合唱にかき消されたものの、みつかさんの脳裏に焼き付いて離れなかった。「いちごを、売ろう」。か細いながらもはっきりと聞こえたというその声は、今となっては誰の声なのかはわからない。敢えて言うなら「降りてきた」のかもしれない。その声は頭のてっぺんからスーっと身体の中に入り込み、血液の流れのように身体中に染み渡っていった。
みつかさんはすぐに電話をとった。いつもは母親の淳子(あつこ)さんにかけるのに、この時だけはなぜか父親の洋(ひろし)さんにかけた。
「お父さん、私、いちごを、売ろうと思う」。
この物語は、たいらひろしさんとあつこさん夫婦の永年にわたるいちご作りにかける想いと、それを支えてきた長女みつかさんとの、いちごが繋いだ家族の絆の物語である。

8号:宇佐美商店のぬか炊き

2019年1月

タイムスリップ
新幹線のぞみ号も停車する北九州市小倉駅。言わずと知れた、福岡市に次ぐ福岡県第2の都市、北九州市の玄関口である。モノレールのターミナル駅でもある小倉駅の周囲は、オフィスビルが集積すると共に魚町などの歓楽街が発展し、紫川の西側にある小倉城跡地周辺には市役所などの官公庁が立ち並ぶ。まさに北九州市の中心部と言える。加えて、年末から年始にかけ、日が暮れる頃にはこの一帯が色とりどりのイルミネーションで照らされる。「小倉イルミネーション」と呼ばれるこのイベントでは、小倉駅周辺から紫川河川敷周辺に渡り約20ヶ所で様々な光のページェントが繰り広げられており、平成最後の小倉イルミネーションを楽しむ人達で毎夜賑わっていた。

 そんな平成の近代的な華やかさを見せる小倉の街中の一画に、突然、昭和が顔を見せる空間がある。小倉駅から南へ徒歩約8分。旦過市場(たんがいちば)と呼ばれる耳慣れないその空間は、全長約180メートル、人が2〜3人すれ違えば肩が触れ合うくらいの狭い長屋のような商店街で、八百屋、魚屋、総菜屋などおよそ120店舗が所狭しと軒を連ねる。そのほとんどが昭和30年前後に建てられたもので、裸電球に照らされたその空間は、昭和レトロというよりもむしろ昭和そのものである。1日およそ8000人が訪れるというその空間では、訪れた客が店主との会話を楽しみながら買い物をするため、あちこちから北九州弁が聞こえてくる。市外、県外の客だけに限らず最近は海外からの観光客も増えてはいるようだが、多くは地元の客で賑わっている。旦過市場が北九州の台所と言われる所以だ。
その旦過市場で戦後間もない頃に店を出した宇佐美商店。この物語は、百年に渡って代々漬け込んできたぬか床を使った「ぬか炊き」を後世まで伝え広げたいという想いで、東京から移住してきた宇佐美雄介さん(36歳)の新たなチャレンジの物語である。

7号:ゆうきひろきさんの新米

2018年11月

 日本人としてのアイデンティティーを感じる風景は「春の桜か秋の稲穂」と言ったら言い過ぎだろうか。しかし、毎年この景色を眺めるに、それほど言い過ぎでもないのでは?と感じるのは私だけではないはず。

 今から遡ること90年前の昭和3年11月10日。昭和天皇即位の礼が執り行われ、その4日後の11月14日から15日にかけ大嘗祭(だいじょうさい)が執り行われた。大嘗祭とは、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい)の事である。ちなみに新嘗祭とは、稲の収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する古くからの宮中祭儀であり、天皇が新穀を天神、地祇にすすめ、その恩恵を謝し、また自らも食する。明治以降は毎年11月23日に行われている。
その、昭和天皇即位の礼に際し、大嘗祭に献上する新米を作るために選ばれた田んぼ「主基斎田:すきさいでん」が、ここ福岡市早良区脇山(当時は早良郡脇山村)であった。天皇一代に一度の貴重な大嘗祭への新米献上で、当時、脇山は蜂の巣をつついたような騒ぎになったという。福岡市の南西部に位置し、北は油山(標高597m)、南は背振山(標高1055m)に囲まれたこの山里は、盆地状の形状をしている事から昼夜の寒暖差が大きい。また背振山系から染み出す冷涼な地下水が美味しいおコメを作るのに適しているという。幾つもの候補地から、ここ脇山が選ばれたのは、そういった条件が整っていたからに違いない。
そして今から8年前、この地とは縁もゆかりもなかった一人の青年が、ここ脇山で有機無農薬栽培でのおコメ作りを始めた。ゆうきひろき(結城大樹)さん、30歳の時であった。

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6号:赤崎和徳さんの赤崎牛

2018年9月

 福岡県嘉麻(かま)市。2006年平成の大合併の折、旧山田市、稲築町、碓井町、嘉穂町の4つの自治体が合併してできた人口約3万7千人の筑豊の町で、福岡県のほぼ中心部にある。明治から昭和初期にかけ、隣接する飯塚市、田川市等と共に炭鉱の町として大いに繁栄した。しかし昭和30年頃、石炭から石油へのエネルギー革命が起こり、石炭需要が激減。採炭事業は衰退し、坑夫数、人口ともに減少し始めた。特に、炭鉱都市であった旧山田市では採炭事業衰退の影響が大きく、人口はピーク時の4分の1にまで減少した。その旧山田市の熊ヶ畑地区の山裾に赤崎牧場はある。今回はこの熊ヶ畑から現れた畜産業界の変革者の物語である。

◆出会い
私が初めて赤崎(あかさき)和徳さん(37歳)に会ったのは、ふくおか食べる通信創刊準備中の2017年6月10日のことだった。福岡県内にはいくつかのブランド牛がある。博多和牛や、最近では糸島牛などが注目を浴びている。鹿児島県や宮崎県に比べ畜産業が盛んな訳ではないものの、ブランド牛が生まれているからには、こだわりの畜産農家が必ずいるはずだと信じ、当時インターネットを使い血眼になって探索していた。すると、ある日「赤崎牛」という文字が目に飛び込んできた。「ん?赤崎?どこだ?」。一般的にブランド牛はその土地名を冠する事が多い。比較的福岡県内の地理に明るいと自負している私でも、赤崎という地名がどの辺りなのかピンとこなかった。ところが、よく調べてみると、「赤崎牛」の赤崎は生産者本人の名前だという事がわかった。その瞬間、なんの根拠も無いのだが「宝物を見つけたんじゃないか!」と直感した事を今でも覚えている。すぐに赤崎さんに連絡をとり、訪問する段取りを整えた。

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5号:カネダイの味噌と松末のみなさんが作った蕎麦

2018年7月

◆2017年7月5日 午後1時過ぎ 朝倉郡東峰村
その日、正午前から降り出した雨は徐々に強まり、午後1時過ぎには土砂降りとなっていた。当時妊娠8ヶ月の井上桂子さんは、以前から楽しみにしていた先生に会うべく、自らが運転する四輪駆動車で山を降り、東峰村から福岡市内へと向かおうとしていた。谷あいを縫うように通る県道52号線には、所々水が流れ込んでいたものの、四駆の性能を駆使し辛うじて前進。水嵩が増え濁流と化した県道脇の赤谷川を横目に見ながら四駆を進めていった。
数分後、桂子さんの目の前には、茶色い泥流で完全に冠水した県道が現れた。「どうしよう…」。進む事も戻る事も困難となった桂子さんはその場で立ち尽くした。携帯で夫に状況を伝えた所「進むか、戻るか。止まるな!」と言われ、桂子さんは意を決して進む事にした。泥流で冠水した県道52号線を祈るような気持ちで進み始めた。

同じ頃、夫で有限会社カネダイ社長の井上宗久(むねひさ)さんは福岡市内からの帰りで土砂降りの雨に遭遇していた。カーラジオから流れる緊急ニュースは、午後1時30分に、朝倉市及び東峰村に大雨洪水特別警報が発令された事を伝えていた。

午後2時頃、宗久さんの携帯が鳴った。「水が入ってきよります!」という従業員からの悲痛な知らせ。宗久さんはすぐに味噌蔵に帰るべくハンドルを切った。ところが、日常通っている県道52号線はすでに通行困難な状況。宗久さんは迂回路を進んだ。普段は地元の人でも通らない、車一台がやっと通れるような林道である。ただでさえ薄暗い林道が豪雨の影響で更に暗い。加えてフロントガラスを激しく叩く大粒の雨で視界は極めて悪かった。運転席という狭い空間で、規則正しいワイパーの音がより緊張感を増す。時折、雷鳴が響く中、いつ山崩れが起きてもおかしくない状況下で宗久さんは先を急いだ。

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4号:うきはの山茶の有機新茶

2018年5月

そこは、まさに「天空の茶園」であった。
耳納連山奥深い福岡県うきは市鹿狩(かがり)地区。地名から察するに以前は鹿の狩場になっていたのか、人家もまばらな標高400︎メートルの深い山あいに突如としてそれは現れた。元々棚田であったところを少しずつ茶園に変えていった為、茶園の多くが急勾配の段々畑。その山の斜面を覆う新茶の緑の帯は、規則正しい曲線を描きながら天空に向かってどこまでも伸びているようだった。

◆4月28日 快晴 気温24度
山々の新緑が眩しいこの季節、我々編集チームは、新茶の茶摘みが始まった頃合いを見計らい、「うきはの山茶」でオリジナルブランドを展開する株式会社新川製茶の茶園を訪れた。茶園は鹿狩の山中に点在し、その数は数十カ所を数える。その総面積はなんと7町(約7ヘクタール)にも及ぶ。1日で回るのは到底不可能。その一つに案内してもらった。案内をしてくれたのは新川製茶二代目の樋口八郎さん(77歳)。45年前にこの地でお茶の無農薬有機栽培を始めた人であり、今回の主人公、三代目の樋口勇八郎さん(48歳)のお父さんである。
「今朝、雉(キジ)に遭うたけん、今日は縁起の良かたい!あんたたちゃツイとるね!」と、人懐っこい笑顔で我々を茶園まで先導してくれた。

茶園に着くと、勇八郎さんを含め3名で茶摘みの真っ最中、今年初めて出てきた初々しい新芽を手際よく摘み取っていた。機械の無い時代は新芽として伸びた茶葉の「一芯二葉」を手で摘み取っていたという。気の遠くなる話である。今では大きなバリカンのような機械で摘み取っているが、この茶葉を摘み取る際の長さの調整は長年の経験と勘によるものだそうだ。
こうして摘み取られた茶葉は、同じく鹿狩の山中にある製茶工場内で荒茶製造、再製仕上げ、充填、出荷という工程を踏む。一般的に製茶業界ではこの工程は分業にて行われていることが多く、新川製茶のように販売も含め一貫して自社で行っているケースは極めて珍しい。それは、こだわって作ったものをお客様に直接お届けしたいという強い想いの現れである。
しかし、ここに至る45年の道のりは決して平坦ではなかった。

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3号:久保田勝揮さんのブラッドオレンジ

2018年3月

「主人が喋ってくれるか心配なんです」。
遡ること昨年の6月25日。私は初めての能古島上陸で少し緊張していた。渡船場まで迎えに来てくれた久保田夕夏(ゆうか)さんの車に乗り込み、一路、久保田農園を目指す。潮の香りのする海岸線の道路を抜け、なだらかな坂道を島の北側に向かって登る。その車中で夕夏さんがポツリとつぶやいた一言だった。夕夏さんによると、ご主人は口下手なタイプだそうで、それを気遣っての一言だった。ハッとした私は、私の緊張が伝わったのかもしれないと、明るく振る舞ってその不安を掻き消した。ほどなく、車は久保田農園の敷地に滑り込んだ。かすかな柑橘の香りとともに、収穫が終わって青々とした葉っぱだけが残った甘夏の樹々が優しく迎え入れてくれた。

久保田勝揮(よしき)さん(36歳)とはこれが初対面。初対面自体珍しい事ではないのだが、これまでの生産者さんと違い、それまでのメールのやり取りは奥様の夕夏さんとやってきた。というのも勝揮さんはパソコンやスマホを全く見ないためメールそのものを使っていないのだ。つまり、勝揮さんの情報は全くゼロでの初対面であった。それが私を緊張させたもう一つの理由でもあった。
長身の勝揮さんと小柄な夕夏さんと私の3人は農園に隣接する、のこのしまアイランドパーク内にある「レストラン防人(さきもり)」でランチをしながら話す事にした。レストランから見える博多湾の景色の良さと美味しいランチに、場の雰囲気も和み、勝揮さんは、エキゾチックな風貌ながらも朴訥なおもむきで一言、一言、丁寧に語り始めた。久保田農園の歴史、就農の経緯、ブラッドオレンジへのこだわりや地域への想いなど、少しずつ言葉が紡がれていった。

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2号:林誠吾さんの梨

2018年1月

「ひたすら石を拾っていた記憶しかないんです。大人の顔くらいある大きな石から、手掴みできる小さな石まで、ゴロゴロ出てきましたねー」。
林誠吾さん(40歳)は優しい笑顔で話し始めた。
今から34年前、誠吾さんが小学校1年生だった昭和58年、林農園は浮羽町(現うきは市)の土地の開墾に着手した。その広さ約120アール。
本格的に梨の栽培に軸足を切る大きな意思決定であった。
この物語は、林農園の現園主、林誠吾さん(40歳)とその父親、新吾さん(67歳)親子の長年に渡る変革の物語である。

◆黎明期
福岡県朝倉市杷木林田(はきはやしだ)地区。赤谷川流域に広がるこの集落は、古くからコメ、果樹の栽培が盛んであった。「杷木町史」によると、梨は明治の終わり頃から大正にかけて6軒ほどの農家が栽培を開始した。(余談ではあるが、筆者の祖父の実兄もこの梨農家の一つであった)。その後、昭和にかけ徐々に拡大し、昭和35年には、この地区に共同選果場が設立され共同出荷が始まった。当時は梨農家だけで40〜50軒ほどもあり、この地区は梨の一大産地であった。
林農園の歴史も古い。曽祖父の大助さんが、コメや葉タバコの副生産物として梨の栽培を始めたのが今から約80年前の事である。それを祖父の俊男さんが継いだ。林家に婿養子として入った俊男さんは、元々大工であったものの、人に使われる事を好まず、自ら農業に取り組んだ。昭和30年頃の事であった。

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創刊号:秋吉智博さんの柿

2017年11月

福岡県朝倉市杷木志波(はきしわ)の政所(まんどころ)地区
麻氏良山(までらやま)の麓、南向きの斜面には、たわわに実った柿畑が広がっている。
「ここの景色最高でしょう!この景色を残したいんですよね」
約1万3000坪にもなる広大な柿畑を眺めながら秋吉智博さん(37歳)は素敵な笑顔で語ってくれた。

その柿畑をあの豪雨が襲った。7月5日のことだった。

◆長い夜の始まり
その日、智博さんは柿山のふもとにあるビニールハウス内で、一人黙々と作業中だった。
「こりゃー恵みの雨やね」
今年、空梅雨で雨が少なかったこの地域。そろそろ雨が欲しいと思っていた矢先の雨だった。
「これで少しは潤うやろ」
そう思いながら智博さんは作業に没頭していた。
ハウス内に響く雨音は実際の雨量よりも大きく響く。しかし、この日は今迄に聞いたこともないような雨音の轟音がハウス内に響きわたっていた。
「こりゃ、ヤべぇな」
夕方近くハウスから出た智博さんは、柿山を覆い尽くした真っ黒な雨雲を見た瞬間、背中に寒いものを感じた。
しかし、この時点ではまさか、柿畑が土砂や流木に埋め尽くされる事になるとは夢にも思っていなかった。
7月5日の長い夜の始まりだった。